主体的な学びを考える

主体性の評価

 近年、大学入試において一般入試の割合が半分未満になり、さまざまな形の推薦入試が増えていることからも分かるように、偏差値や点数だけで学力を判断せずに、もっと総合的に生徒の学力を評価しようという考え方が主流になってきています。そういった風潮を表すもののひとつとして、「生徒の主体性」「主体的な学び」といったフレーズをよく耳にするようになりました。
 実はこのフレーズ自体の登場は意外に古く、1989年の学習指導要領にはすでに「主体的に、自ら学ぶ意欲」という文言が見られます。その後、1998年「自ら学び、自ら考える力」と継承され、「脱ゆとり」と言われた2008年は「生きる力」と曖昧になったものの、2017年に再び「主体的・対話的で深い学び」というように復活して現在に至ります。冒頭で言及した最近の大学入試の傾向は、こうした新しい学力観が教育界に広く浸透したことで起こった変化なのでしょう。すでに、高校から提出される調査書をもとに主体性を評価し、入試で点数化する大学も出始めています。
 しかし、調査書に記述されている部活動や資格取得、検定試験合格などから、主体的に学ぶ姿勢や主体的に生きる姿勢がどれだけ分かるのでしょうか。部活動をする生徒の方が、自宅で興味のある分野の本を読み漁っている生徒や、休みの日に森の中に入り込んで自然と触れ合っている生徒より、主体的にものごとに取り組んでいるとみなしていいのでしょうか。実際、主体性をどうやって測るかという問題に関して、多くの議論が行われており、授業中の挙手や発言の回数、ノートの取り方など表面的な評価が行われていることへの批判もあります。内申書で主体性が評価され、それが入試において点数化されるとなれば、入試のために仕方なく部活をやったり、無理にボランティア活動に加わったり、興味もない資格を取得したりする生徒も出てくるかもしれません。
 もちろん、個々の生徒の成長を把握する際に、テストの点数以外の要素として主体性を評価することはあると思います。テストでは相変わらず点数が悪くても、自発的な学習時間が増えている、自分から質問に来られるようになった、などの点を認めてあげるのは有効だからです。ただし、それはそのような評価を学習意欲の向上に活かすという意味においてであり、入試で用いるとなると話は別だと思います。

アクティブ・ラーニング

 「主体的な学び」の具体的な指導法として、「アクティブ・ラーニング」という言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。これは、教師から生徒へ一方的に知識を伝達するのではなく、生徒たちにグループ学習や議論をさせ、それを授業に取り入れていこうというものです。しかし、そんなアクティブ・ラーニングには、「活動あって学びなし」という批判が多いのも事実です。アクティブ・ラーニング形式の授業を受けた生徒たちからは、好意的な感想もあるものの、それ以上に「みんな勝手な思いつきを言うばかりで、議論が深まらないし、知識も身に付かない」「ただのお喋りになってしまう」「知識がない者同士で話し合っても勉強にならない」といった指摘もたくさん挙がるといいます。
 この方法が有効に機能するかどうかは、それに先だって知識の獲得が十分に行われているかどうかにかかっていると言えます。それなのに、日本の教育界では、「詰込み教育」という言葉が端的に示しているように、知識を吸収することがあたかも悪であるかのような議論がなされたり、露骨にそう言わないにしても、知識の吸収に徹してはいけないということが前提になったりしているように感じられます。《知識を伝授するような授業はもう古い。これからは学習者が能動的・主体的に学ぶように促さなければならない。だから教師は授業で教えるという姿勢を取ってはいけない・・・》という極端な考え方をする人すらいるようで、ある大学で教育学の教員が「自分は何も教えない。君たちが勝手に学ぶんだ」といって、授業で毎回雑談ばかりして学生たちから苦情が出たことも実際にあったそうです。
 結局のところ、主体的な学びをするためには、まずは深い思考を可能にするような豊かな知識を習得する必要がある、ということなのだと思います。小学校~大学(の前半)は、その後の人生で出会う複雑な問題に取り組むための知識や勉強方法を学ぶ重要な時期です。「学校で習ったことは大人になってから使わない」などという意見は、目の前の問題に「主体的に」取り組んだことがない大人の言い訳でしかありません。今やっていることは将来必ず役に立ちます。頑張って勉強しましょう。